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安倍家の歴史 

安倍宗任より四十一代末裔の安倍晋太郎 古沢襄



何年か前に安倍晋太郎氏が北の王者・安倍一族の末裔だと書いたことがある。グーグル検索で「安倍晋太郎」と入れると安倍家の系譜にそのことが出ていた。晋太郎氏は元毎日新聞の政治記者、共同の清水二三夫氏、日経の大日向一郎氏と親しい仲であった。大日向氏には「岸政権・一二四一日」の著書がある。



たまたま岸事務所で三氏の雑談に交えて貰っていたら、晋太郎氏が安倍宗任の末裔説を言っていた。多分、冗談だと思って聞き流したのだが、晋太郎氏は本気だった。安倍一族のゆかりの地を家人に調べさせ、地域の市町村役場などを丹念に回りながら、各地に古くから伝わる家系図を調べ歩いていた。

昭和62年(1987)には画家の岡本太郎氏と連れだって、晋太郎氏と洋子夫人、晋三夫妻の五人で青森県五所川原市の石搭山・荒覇吐(あらはばき)神社を訪れた。荒覇吐神社は安倍家の始祖である安倍宗任ゆかりの神社といわれている。

晋太郎氏の夫人は岸元首相の長女。また父親は反骨の政治家といわれた安倍寛氏。しかし寛氏は昭和21年に亡くなっている。晋太郎氏が東大法学部に在学中のことだった。

昭和33年の総選挙で晋太郎氏は初出馬したが、演説会では「岸総理の女婿」と紹介されることが多かった。洋子夫人は「わたしの安倍晋太郎」の著書で<<主人は愉快ではなかったろうと思います。「安倍寛の息子」と、小さくつぶやいていたのですから・・・>>と率直に述べている。

息子の晋三氏は祖父・寛氏のことは生まれる前だから知らない。母方の祖父・信介氏に子供の頃から可愛がれていたから、”岸信介の孫”という意識の方が強烈でなのであろう。私はあえて晋三氏を”宗任より四十二代の末裔”とは言わない。四十一代・安倍晋太郎氏で宗任を祖とする北の王者の末裔は途絶えたと思うようにしている。

<安倍家の系譜=山口県大津郡日置村(後に油谷町に分割→現長門市)の安倍家は、江戸時代、大庄屋をつとめ、酒や醤油の醸造を営み、やがて大津郡きっての名家と知られるようになった。

祖父の安倍寛が日置村村長、山口県議会議員などを経て、1937年、衆議院議員に当選し政治一家となった。

「共同通信社」出身のジャーナリスト古沢襄によると、安倍晋太郎は自分たち安倍家のルーツは岩手県(安倍氏 (奥州))であり、安倍宗任の末裔だと言っていたという。安倍宗任は1051年の前九年の役にて源頼義、源義家率いる源氏に破れ、大宰府に配流された奥州(陸奥国)の豪族である。『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』216-217頁に「家系図をひもとくと安倍家は、鎌倉時代以前の奥州征伐などで名高い阿倍比羅夫、前九年の役の安倍貞任にまで繋がる歴史ある名門である」とある。

安倍家の元家政婦は東北地方に飛び、安倍一族の関係地と言われた地域の市町村役場などを丹念に回りながら、各地に古くから伝わる家系図を調べ歩いた。その結果、油谷町に住み着いた一族が宗任の流れをくむ者たちであること、青森県五所川原の石搭山・荒覇吐(あらはがき)神社に始祖である宗任が眠っているらしいことを調べ上げた。

元家政婦からの報告を聞いた晋太郎は昭和62年(1987年)7月末、出馬表明した総裁選の全国遊説の折、妻洋子と晋三夫妻を伴い同神社に出向き、先祖供養を果たした。なお案内役を兼ねて晋太郎たちに同行したのが画家の岡本太郎であり、岡本もまた安倍一族の流れをくむ一人として、自らのルーツに関心を持って調べたことがあったという。

平成元年(1989年)に発刊された『安倍一族』(盛岡タイムス社編纂)という一冊に晋太郎は『わが祖は「宗任」』と題する、次の序文を寄せている。“宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら華咲かしてゆく精進を続けられたら、と願うことしきりです”。

但し、安倍晋三にとり女系の祖先にあたり、父系は平氏であり平知貞の系譜をひく。平家滅亡により子孫の迫害を恐れ女系の安倍姓を称したという。また、母方の祖父 岸信介、佐藤栄作兄弟は源義経の郎党 佐藤忠信の末裔とされる。家紋は「丸に立梶の葉」。 (ウイキペデイア


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by angel54 | 2013-10-29 02:39
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